書をもって、街に出る

といいつつ、なかなか出ない

セキュリティ・ブランケットとしての本

 

スヌーピーでおなじみのマンガ『ピーナッツ』に登場する

ライナスという男の子は、いつも肌身離さず毛布を抱えている。

 

彼は、母親のぬくもりに包まれていた赤ん坊のころの、そのぬくもりの

残滓を、毛布という形で身に着けることで心のよりどころを得ている。

 

ライナスの毛布は、セキュリティ・ブランケット(安心毛布)と呼ばれ、

乳幼児期の子供が愛着を寄せる無生物対象として心理学用語にもなっている。

(参照:安心毛布 - Wikipedia

 

だが、これはなにも乳幼児に限った話ではなく、大人になっても

(程度の差こそあれ)その人なりの安心毛布が存在すると思う。

 

自分に限って言えば、それは間違いなく「本」であった。

 

物心ついたころから、絵本・児童書を始め、様々な本を読んできた。

本一つ一つの中に、広大で深淵な世界を垣間見ることができる。

そのすばらしさに心を奪われた。

 

そしていつしか、本という紙の集合体が、自分にとっての

セキュリティ・ブランケットになった。

 

電車に乗る時は、必ず鞄に文庫本をしのばせて出かけるようになった。

携帯の画面にくぎ付けになっている人たちの中で、おもむろに

本を開いてすまし顔でページをめくる、という行為に何とも言えない

優越感を覚えた。

 

受験の時や、病院の待合室に座っているときなどは、不安や緊張を

ごまかす為に、本を読んだ。正直内容など全く頭に入ってこない時のほうが

多かったが、「読書ができているから、おれは大丈夫だ」という

まったく根拠のない自信を抱くことで、平静さを保っていたのだと思う。

 

自分がこの拙い文章の中で伝えたいのは、ある種の本好きにとっては、

本というものはただ読書するもの・情報を得る媒体というだけにとどまらない

時があるのではないか、ということである。

 

つまり、文字通りセキュリティ・ブランケットのように肌身離さず

持ち歩くことによって、自身の心の平静を保つ、あるいは「自分らしさ」

を保つという役割を知らず知らずのうちに担っている時があるのではないだろうか。

 

そしてそれは何も本にだけ限った話ではないだろう。

 

幼いころの心のよりどころは、大人になってもやっぱり心のよりどころ

だったりする。

 

しかし、いつまでたっても本に頼らなければ平静を保てない自分の弱さに

辟易するというのも事実である。

 

たまには本を持たずに出かけてみるのも一興か、と思いつつ、

結局気づいたら鞄の中に本が入っているというホラー。

 

結局、本というのは自分の体の一部みたいになりつつあるのかな、と思う。

それがないとなんだか落ち着かない。というよりそれがないと自分自身という

1つの統一体が完成しない。

 

そう考えれば、いつまでたっても「本離れ」できないのも説明がつく。

だって、体の一部をむりやりもぎ取ろうとしたら、痛いじゃないですか。

下手したら死ぬ。

 

嬉しいような、悲しいような。

 

兎にも角にも、今日も自分のセキュリティ・ブランケットは、鞄の中に

ちゃっかり収まっているのでございます。