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書をもって、街に出る

といいつつ、なかなか出ない

「理由」を考えることについて 稲泉連『僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由』

自分は今、大学で哲学という学問を専攻している。

 

哲学を専攻していると、初対面の人に必ずと言っていいほど聞かれる質問がある。

 

「どうして哲学やろうと思ったんですか?」

 

数ある学問のうちから、どうしてまあそんなわけのわからない小難しいものを選んだのか、というわけである。

 

自分はこの質問にいつも戸惑ってしまう。

聞かれるたびに、「そういえばなんで哲学やってんだろう」と自問自答してしまうからである。

 

それらしい理由を答えることはすぐにできる。だいたい、

 

「今までの教育の枠内では、答えの決まった問題を解くことしか出来なかったから、答えのない哲学という学問を通して、自分自身で答えを考えていくことに魅力を感じたから」

 

というニュアンスで答えれば、多くの人は納得してくれる。

自分自身も、このもっともらしい「理由」に満足していた節があった。

 

だが、よく考えると、この理由は「哲学をやってみて感じた哲学の魅力」であって、「哲学を始めようと思った理由」ではない。いわば後付けの理由である。

 

では、哲学を始めようと思った本当のきっかけはなんなのか。

 

情けない話だが、「そんなものはない。」というのが本音である。というより、人に話して納得してくれそうな論理だった理由がない、といったほうが正確である。

 

しいて言えば、「哲学をやらなければならない、となぜか思ったから」という感じだろうか。「なんだそりゃ」と思うかもしれないが、それが率直な感想なのだ。

 

思うに、理由を語ることは案外やっかいである。大学の専攻にしたって、或いは趣味や恋、仕事選びにしたって、元のもとをたどっていけば、案外「なんだそりゃ」と思うような他愛のない理由が多いような気がする。

 

そこに、後付けの立派な「理由」が加わった途端、さもその「理由」も含めた行為全体が価値ある高尚なもののように思えてくる。

 

こういう構図って、いろんなメディアで、物事にドラマチックさを与えるために使われてると思う。

 

そういう行為の善悪はともかくとして、人が何かというと「理由」を求めたがる生き物だということは容易に理解できる。

 

だから先日も、「理由」を求めて一冊の本を購入した。

 

僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由 (文春文庫)

僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由 (文春文庫)

 

 

 

これから働く予定の自分にとって、何か参考になることがあるかもしれない。

今までのように適当な理由しかもてないままではいけない、という危惧を抱かせるような切迫感を、「働く」ということに対して漠然と感じていたこともある。

 

ありのままの「理由」を吐露していく自分とほぼ同年代の若者たち(といっても十年近く前のだが)の過去と現在を垣間見ていく中で、一つ漠然と抱いた思いがある。

 

「自分自身が生きていくうえで、理由なんてものはそんなに重要じゃないかもしれない」

 

下手な「理由」を考える前に、結果に右往左往するほかないのが実情である。夜中に突然ポテチが食いたくなれば、とりあえず食う。「アトピーもちだから、明日絶対に肌に異常が出ると経験上分かっているのに、それでも食べてしまった理由」をむりやり考え出すのは、ポテチの袋を丸めてゴミ箱に入れた後である。(そして次の日に案の定後悔する)

 

「理由」は、やっぱり後から考えることのほうが多い。

 

それで今まで何とかやって来た。時々いい加減な自分にうんざりすることはあっても、それ自体が人に迷惑をかけるわけではない。

 

だが同時に次のようにも思った。

 

「自分のしようとすることに他人の人生を巻き込まなければいけない時、理由は非常に重要なものになる。」

 

「一緒に漫才コンビ組もう」と言われたら、だれだって「なんで俺なの」と思うし、そう聞くだろう。「あそこの国にミサイルを落とします」と公表したいなら、少なくともそこに明白な理由がなくてはいけない。

 

こうして「理由」というものが、「どうでもいいけど、よくないもの」だということが分かった。

 

要は、付き合い方の問題なのかもしれない。

 

とにかく、次に哲学をする理由を聞かれたら、こう答えることにしよう。

 

「お昼にカレーを食べる理由と同じです。」