書をもって、街に出る

といいつつ、なかなか出ない

哲学擁護論

台風が近づいている。

 

中学生くらいのころまでは、台風が来ると

「今日学校休みになんねーかな?」

とドキドキしたもんだ。

 

それが今となっては、台風が来て第一に考えるのは

「うわー、今日バイトどうすんのこれ・・・」

であり、各種交通機関の情報を収集したあげく、最終的に

「だる・・・」

という感想に収束する。

 

少年時代の純粋さはこんなところからも失われていくのか。

南無・・・。

 

閑話休題

 

この前哲学について書いたので、今日もちょこっと哲学について

お話しさせていただきやす。

 

「もういい、あきたよ哲学の話は・・・」

 

という方は、遠慮なくブラウザバックでお願いします。

 

さて、

哲学をやっていてもう一つよく聞かれる質問がある。

 

「哲学って、どんなことやってるんですか?」

 

はい、当然の疑問でございます。

そして哲学にとっては、得体のしれなさを払拭するチャンスでもあります。

その、怪しいカルト集団を見るような目つきをやめていただきたい。

 

結論から言ってしまうと、学部レベルの哲学の授業(でもゼミでも)で

行われていることは、文系のほかの学問と大して相違ないと思う。

 

講義受ける→必要なら文献を読む→テストやレポートを書く

 

という流れの繰り返しである。ゼミに入ればここに討論や発表が加わってくるが、

それも基本的に他専攻と変わりはないだろう。

 

必ずしも、日の光を避けて図書館の地下深くに潜り込み、傍らに

文献の山を積み上げたまま動かないやつとか、己の美学に付き従った結果

いたずらにモラトリアムを延長し続けるやつだけが哲学の徒ではないわけだ。

(どちらのタイプも基本的に授業に出ない)

 

だから、そんな目で見るのはやめて。

 

 

 

さて、哲学を擁護する主張をもう一つ。

 

哲学は、数ある学問のうちでも最も「思考の訓練」ができる学問だと思う。

それはもう、サディスティックなまでに「考えなければならないこと」を

突き付けてくるのが哲学という学問である。

 

というより、「考え続けること」それ自体が哲学だ、といっても過言ではない

かもしれない。(過言かもしれない)

 

優秀とはいえないシナプスを全酷使してたどり着いた一つの答えが、

次の瞬間には自分自身によって否定されて、また答えのない大海に

投げ出される、ということは日常茶飯事である。

 

はっきり言って、つらい。

考えたってしょうがないじゃないか、と何度も思う。

 

それでも、なぜか考え続けることをやめない。

そして、その「思考」錯誤の中で、ごくまれに「これだ!」

という考えにたどり着いたりする。(それもまたすぐに否定されたりするが)

 

そして、考えるたびに、自分の「思考力」は少しずつ鍛えられていく気がする。

 

この苦しみと快感は、哲学じゃないと味わえないものなんじゃないかと思う。

 

だから、自分は「考えること」に関してドMなんだろうな、と思う。

 

あれ、これって擁護できてるのか?

 

あ、ますます人が遠のいていく・・・。