愛すべき自意識過剰 メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』
あー、やっと読み終わった。
メアリー・マッカーシーの『アメリカの鳥』。
池澤夏樹の世界文学全集でもいっちょ制覇したるか、と思い立ったのが9月の頭。
そして、その手始めにと読み始めたこの本を読み終わったのが昨日。
池澤さんの文学全集は30巻ある。
・・・先が遠い。
ていうか最近は、中学・高校のころのように一日中一つの本にかじりついているということができなくなってきた。最低でも二時間に一回は休憩入れないと、急速に本に飽きてくる。
「読書力」というものも、着実に下降線を描いておりますな。
・・・まあ、なるようになるさ。
閑話休題。
世の中には、どうしようもなく自意識過剰な奴が存在する。(自分である)
そいつは、傍から見ればどうでもいいようなことを深刻に悩み、自身の肥大化したエゴを手なずけられずに日々悶々としている。(自分である)
例えば、だれも気にしていないのに寝グセが治らないことにイライラしている、だれも気にしていないのに自分がラインのグループに入ることなどおこがましいと思っている、だれも気にしていないのに飲食店で相手と同じメニューを頼むのは芸がないと思っている、などは自意識過剰の初期症状である。(十中八九、自分である)
とまあ、こんなどう考えてもめんどくさいやつが世間には実在するわけであるが、『アメリカの鳥』の主人公ピーターも、相当自意識過剰な奴である。
どれくらいかっていうと、全430ページすべて彼の自意識で埋まっているくらい。
彼は、自分なりの価値観をもって外の世界に切り込んでいく。
彼の武器は、カント哲学の普遍的道徳、いわゆる「定言命法」によって示される倫理観である。
「あなたの意志の格率が、常に同時に普遍的な原理として妥当しうるように行動せよ」
というのが定言命法の骨子であるが、つまりは世の中の人すべてが、条件抜きで正しいと思えるような絶対的な道徳があるんだよ、ということである。
そして、作中の主人公ピーターの行動はすべて、彼の自意識が判断した「普遍的道徳」に則った行動である。
だが、全人類に当てはまる絶対的道徳などというものは、果たしてあるのだろうか。
これに関する議論をここでするつもりはないし、あらゆる天才的な哲学者や思想家たちが、カント以来死ぬほど議論してきたにも関わらず答えが出ていないのだから自分に分かるわけがない。
だけども、『アメリカの鳥』の主人公ピーターの気持ちは少しぐらいなら分かる。
武器は、古びた(と周りは言う)カント哲学。防具はなし。
ダメージは否応なく蓄積されていく。
母親と自然をこよなく愛する誠実な若者は、その誠実さゆえに自分を苦しめていく。
絶対の道徳を追い求めて、それを鼻で笑う大人たちを鼻で笑って、肥大化する自意識を持て余して、結局何もできない自分に自己嫌悪したりして・・・。
これって、戦後の中流以上のインテリ層の若者特有の、甘ったれた理想観なのだろうか。
そういう気もするし、そうじゃない気もする。
でも、やっぱりなんとなく憎めないんだよなあ。
支離滅裂な文章でごめんなさい。(自己嫌悪)←自意識過剰?